日本のポルノ映画

日本のポルノ映画

日本でのポルノ映画とピンク映画の違いとは?

 

日本では、大手映画会社によって製作された劇場上映作品を「ポルノ映画」と言います。

 

そして、独立映画会社によって製作された劇場上映作品は「ピンク映画」と区別して呼ばれます。

 

また、製作当初からビデオ用に作られたオリジナルビデオを「アダルトビデオ」と言い、

 

「ポルノ映画」や「ピンク映画」とは別ものとして扱う日本独特の慣習があります。

 

これ以外にも、「Vシネマ」というオリジナルビデオのアダルト系作品があり、有名な俳優やタレントが出演しています。

 

「ポルノ映画」「ピンク映画」「アダルトビデオ」「Vシネマ」で、それぞれ作品性や俳優のタイプ、そして制作費などが

 

大きく異なるため、同様に、ポルノ女優、ピンク女優、AV女優もまた、それぞれニュアンスが異なるものとなっています。

 

日本のピンク映画について

 

ピンク映画というのは、本来「お色気映画」と呼ばれていました。

 

つまり、ピンク映画は、ささやかなセクシーさを売りにした二流の映画のことでした。

 

1960年代に、大蔵映画などのピンク映画専門映画会社が相次いで設立されたことで、

 

ピンク映画は映画の一ジャンルとして確立されました。

 

1970年代になると、大手映画会社製作のポルノ映画が人気を集めることとなり、

 

小資本のピンク映画会社から大資本のポルノ映画会社へ人材が流出しました。

 

ところがその後、アダルトビデオの登場によって、

 

ピンク映画会社やポルノ映画会社からアダルトビデオ会社へ人材が流出するようになりました。

 

けれども、ピンク四天王の作品などによって、再びピンク映画の作品性に注目が集まるようになり、

 

ピンク映画の希少性を守るため、2000年代以降も製作は続けられています。

 

ピンク映画の希少性が分かるエピソードとしては、

 

1982年に日本初のゲイ向けピンク映画が上映されたことが挙げられます。

 

1983年にはゲイ専用の映画館「梅田ローズ劇場」が開館しました。

 

※梅田ローズ劇場は2011年に閉館し、2012年に新世界に日劇ローズとして復活しました。

 

以上から、ピンク映画は今では、ポルノ映画のインディーズ配給作品という狭義の見方が主流となっています。

 

日本のポルノ映画の詳説

 

東映ポルノの仕掛け人は、東映任侠映画と同様に、当時の東映取締役・岡田茂プロデューサーです。

 

※岡田茂プロデューサーは、後に東映社長となります。

 

岡田は、1967年に中島貞夫監督の「大奥(秘)物語」や、

 

1968年に石井輝男監督の「徳川女系図」といったエロチシズム路線の映画を次々に仕掛けました。

 

1971年7月3日に公開の鈴木則文監督の「温泉芸者シリーズ」の第4作「温泉みみず芸者」では、

 

天尾完次プロデューサーが、海外の雑誌のグラビアから「ポルノグラフィ」という言葉を見つけ、

 

16歳で主演デビューする池玲子を「日本初のポルノ女優」というキャッチコピーで売り出しました。

 

つまり、アダルトを意味するポルノという言葉はこの時に東映が作った造語なのです。

 

岡田茂プロデューサーがポルノ映画に参入した動機というのも興味深いものがあります。

 

当時、ピンク映画は広告宣伝をしなくても隆盛を極めていました。

 

それで、ピンク映画の興行収入を計算してみると、ピンク映画全体で松竹の年間配入を上回ることが分かりました。

 

つまり、東映はポルノ映画がビッグビジネスになることに気づいたのです。

 

その後、日活も東映に追随し、「日活ロマンポルノ」をリリースしました。

 

東映の「温泉みみず芸者」公開から4ヶ月後の1971年11月20日に

 

「団地妻 昼下りの情事」「色暦大奥秘話」といった「日活ロマンポルノ」が封切られ、

 

「ポルノ映画」という名称が一般に広く知られるようになりました。

 

東映のポルノは、ヤクザ映画や実録映画と併映されました。

 

そして、1973年以降、東映のポルノの営業成績が急落しました。

 

しかも、1974年2月に公開された多岐川裕美主演デビュー作で鈴木則文監督の「聖獣学園」は、想像できないほどの不入りでした。

 

このため、当時東映の岡田社長は、「ストリップ映画は所詮キワモノだよ!」と宣言しました。

 

そして、1974年6月に公開された梅宮辰夫とシャロン・ケリーのセックス戦が展開する

 

山口和彦監督の「色情トルコ日記」を最後に、岡田社長はポルノ映画からの撤退を表明しました。

 

けれども一方で、ヒットしたポルノ作品のロングラン態勢の確立を進めました。

 

例えば、ポルノ作品を3週目以降の併映に加えたり、

 

春休みや夏休みに展開した「東映まんがまつり」や「特撮大会」を早期に切り上げ、

 

大人向けが好まれる下番線(地方館)用に、(製作費)300万映画の独立プロのピンク映画を真似て、

 

(製作費)500万映画を東映ニューポルノとしてリリースしました。

 

1970年代後半に角川映画と組んで「大作1本立て」を始めましたが、

 

それまでは二番館向けとして東映ポルノの製作は続きました。

 

1979年の関本郁夫監督の「天使の欲望」を最後に、東映本体はポルノ映画から再び撤退しました。

 

けれども、1980年代半ばまでは、関連会社の東映セントラルフィルムにより

 

獅子プロダクション作品などのピンク映画の買取が行われ、

 

また同じく関連会社の東映洋画が洋ピン(ピンク洋画)の買取をし、配給されました。

 

東映ポルノの特徴には、スケバンもの、猟奇ミステリー、時代劇など、ジャンル・クロスオーバー的なものが多数を占めていることが挙げられ、丹波哲郎、天知茂、梅宮辰夫、渡瀬恒彦といった大スターが出演していました。

 

これに対して、日活では団地妻もののようなポルノ自体が主題として企画されました。

 

日活は大手でありながら経営難に陥っていました。

 

日活はこのことがきっかけで、東映を模倣する形で、製作コストの安いポルノ映画の製作に着手しました。

 

特に、一般映画の製作から撤退し、ポルノ映画専業となったため、

 

わずか数年で東映をポルノ映画から撤退させるほど成功しましたが、

 

アダルトビデオの登場により事業継続が困難となり、1988年に日活ロマンポルノを終了し、

 

一般映画の製作へと回帰することとなりました。

 

このため、ポルノ映画出身の俳優が、その後に一般映画で大きな成功を収めることとなりました。

 

つまり、当時はまだ売れていない俳優にとってポルノ映画出演が

 

「芸能界への登竜門」となっていました。

 

1990年代以降、東映および日活からポルノ映画はあまりリリースされることがないため、

 

例外として、2003年に東映ビデオから杉本彩主演の「花と蛇」がリリースされたことは

 

ポルノ映画ファンの記憶に深く刻まれています。

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